先日、石巻のライブハウスでライブをさせてもらった。3.11のちょいあとだったけども。
公演の告知開始当初、「石」の時に引っ張られて、何を思ったか「岩手県石巻」とか書いてしまったが、これは非常に失礼なことだったなと、ズルズルと反省し続けている。
と、いうのも、やはり東日本大震災のことが大いに関係してくるというか、災害はまさにそこで起きたことで、そこからの新しい希望の一つとして、宮城県石巻市に生まれたライブハウスであったということに対する意識の薄さをすごく反省することになった。
震災については、自分の中でもなんというか、色々ある。
震災当日、僕は会社員をしていたので、勤務先の池袋のオフィスにいた。リクルーター、といって、新卒採用をする人事の手伝いで、会社に興味のある学生とゆるい面談をしていた。その最中だった。
7階建てくらいのビルは激しく揺れた。急いで非常階段で外に出た。4階分のうねる階段をなんとか降りながら、「これは確実に数分後に回線がパンクする」と思い、当時iPhoneと2台持ちしていたガラケーから、妊娠7ヶ月の妻に発信した。
8階の自宅。マンションが折れて倒れるんじゃないかと真剣に心配したが、都内ではマンションが倒壊するようなことはなかった。
池袋から杉並区の自宅まで歩いて帰宅した。
2011.3.11、通勤通学をしている日本人、というか物心ついていたみんな、100%がこの日を忘れられないでしょうな。
それからの日々は、テレビやネット含め、色褪せずに覚えている人が多いんじゃないだろうか。
毎日、原発のリスクの煽りや、津波被害が連日報道され続けていた。
ボランティアが現地で活躍するフェーズに移行していくと、知人も会社を休んで参加したりしていた。
僕はというと、6月に娘が生まれ、家を空けて被災地に行くというところまでは行動が起こせなかった。
多少の募金をする程度で、関心は寄せていたが、行動には起こせなかった。
本当になにかがしたかった。でもできなかったので、ここらへんのモヤモヤが残ってるんだよねぇ。
怒涛の子育てが続く、また実父の病状が芳しく無く数年がすぎる。
父が他界するとまた別のトラブルが起きる。また連動して自分の仕事も考える状況になってくる。
自分の人生を取り戻した、、、というのは大げさかもしれない、決して過去の状況がネガティブまみれだったわけでもないが、そう思える様になったのはここ数年、数ヶ月かもしれない。
そんな状況での石巻市でのライブのオファーだった。
よくよく調べてみたら、東日本大震災での犠牲者が最も多かったのは石巻じゃないか。。。
当時の諸々の感情や、慮ることしかできない現地・地元の人達の心情が、言語化できないなんとも言えない気持ちになった。
現地に行くと、当然なのだろうかどうなのか、みんな明るい。
ライブハウスに出入りするような人たちだからそりゃそうなのか、わからないよな。地元がほとんど壊滅していたんだから。
街の中には色んなところに津波到達点のラインがあったりする。50年後、100年後に残さないといけないものだ思う。遺構も始めて観た。時間が経って、肉眼で見るのはぜんぜん違う。本物を、リアルを目にするというのは本当にすごいことだとおもう。画像や映像は、所詮想像だ。
いろいろなことを乗り越えて来た人たちなのだろう。と、感じた。
行けてよかった。バンドでライブしに行ったら、喜んでもらえたんだ。
あの時、土砂かきや復興のボランティアには行けなかったけど、音楽して、石巻でちょっとでも喜んでもらえる人がいて、現金を落とすことができた。
まだまだこんなもんじゃないと思うんだけど、色んな人の小さいことの積み重ねだ。その一部になっていこう。みんなで。これだけじゃないけど。